パプリカ商店 ブログ
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本ブログでもいち早く原作を取り上げ、一大センセーションを巻き起こした『帰ってきたヒトラー』が映画化された。小説の翻訳者/森内薫さん、映画字幕翻訳者/吉川美奈子さん、小説文庫版および映画パンフレットの解説者/マライ・メントラインさんの揃った、日独協会主催のイベントで背景を聞いたうえで映画を鑑賞した。
小説では現代に蘇った<ヒトラー>の一人称で語られる物語が、映画ではまったく反対とも言うべき、ゲリラ撮影のセミドキュメンタリーとして展開される。この、「ヒトラー」を娯楽として消化してよいものかというドイツ人永遠の葛藤は、小説内ではいわばパラレルワールドを扱うという「距離感」の設定により、「本物」のヒトラーについて語ることが回避され、巧みに処理されている。その代わり、終戦当時や現代の政治家等、実在の人物をモデルにしたキャラクターに現実のものとしての解説注をつけることがかなわないわけである。翻訳時にはそれを本文に取り込むことでなんとかクリアしたそうだが、一人称であるため、ヒトラーの知らないはずのことはその手法が使えず苦労した、とのことだった。
一方映画では、蘇った<ヒトラー>の描写もさることながら、撮影の許可を得てはいたそうだが、一般市民、極右政党も含め、街頭でヒトラーに出会ったとしたらどのような反応を示すか、という「受け手」、つまり私たちのほうに照準が当てられ、<ヒトラー>の「魅力」を描くという小説の試みの先にある、それに惹かれる私たちの側の問題がえぐり出される。その「私たち」も映画中では、蘇った<ヒトラー>は実はその中で撮影中の<映画>内の存在で、その<映画>の中で市民が移民問題に関して語り、反EUの政党AfD「ドイツのための選択肢」が、中東からの難民問題に対する運動体「ペギーダ」が、東方からの「被追放者連盟」が語り、ネオナチ党首が登場するというドキュメンタリーの手法で集められた素材をフィクションとして処理する形で、「今、ここ」からこれまた丁寧に距離が置かれてはいる。ちなみに、映画で大きく取り上げられた難民問題は小説刊行時にはさほどでもなかったもので、小説内ではトルコ人の跋扈に<ヒトラー>が驚く程度である。ここに、現実の進行の速さが驚きを持って受け止められるべきであろう。
その映画の中の<映画>中で<ヒトラー>は、自分を最初に見出し、そして本物であることを悟って亡き者にしようとするザヴァツキに対して、「自分はモンスターか。しかし国民が選挙で自分を選んだ。選挙をなくすのか」と迫る。現代において、あの政権奪取の手法、そしてあの熱狂は二度と繰り返さないはずだったのに、EU加盟も検討されたトルコでは狂言と思われるクーデターを通じてまさに「独裁」が確立しつつあり、此方では象徴のはずの天皇の生前退位の意向が示されたという報道ひとつで、「大御心」と色めき立つ「臣民」があぶり出される。
この映画では、ユダヤ人問題がさらに遠くなっているため、<ヒトラー>の秘書のクレマイアー嬢が実はユダヤ人で、祖母は強制収容所に入れられた経験があり、ほかの家族は皆殺しになったことがわかる、小説では一番ショッキングだったシーンのインパクトは残念ながら薄れていた。<ヒトラー>以外の登場人物の役名が、下の名前はすべて役者の実名となっているのは、映画の中のできごとは誰にでも起こりうること、というメッセージだという。
Er ist wieder da 帰ってきたヒトラー
2016年7月24日日曜日
パプリカ商店の新着情報とともに、代表による映画評など、肩のこらない読み物を提供していきます。
どうぞお楽しみに。