パプリカ商店 ブログ
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Knaus出版 2012年 ミュンヘン 285ページ
ひとりの女性の「生きたかもしれない」人生が、20世紀ヨーロッパを背景に5通り描かれるという奇抜な趣向の小説。
20世紀初頭に、当時オーストリア帝国に属したガリツィア地方に生まれた女の子は、生後数か月で死んでしまう。父はキリスト教徒、母はユダヤ人。父はそのままアメリカへ移住、母は娼婦となり、村を出る。かつてキリスト教徒に夫を殺された母方の祖母は、ひとり村で年老いていく。
だが、もしも母が機転をきかせて、雪で女の子を生き返らせていたら? 2通り目の物語では、後にもうひとり女の子が生まれ、一家4人は首都ウィーンへ。第一次大戦が始まり、薄給の公務員一家は飢えと寒さと闘う。やがて祖母も一家を追ってウィーンへ。女の子は成長し、友達の許婚に恋をする。失恋し、やはり自殺願望のある行きずりの男と心中。父と母はその数年後に死に、ひとり残った妹は、やがてナチスのユダヤ人迫害の犠牲になる。
だが、もしも失恋した女の子が別の通りを歩いていて、自殺願望の男と出会わなかったら? 3通り目の物語では、大人の女性になった女の子は共産党に入党し、そこで夫となる男性と知り合う。夫婦は家族を捨ててモスクワへ移住。だがスターリンの粛清で夫は逮捕され行方不明、その後彼女もやはり逮捕され、シベリアの収容所で死ぬ。
だが、もし秘密警察が逮捕にきたとき、彼女が偶然不在だったら? 4通り目の人生では、夫を待ち続ける彼女は第二次大戦中、モスクワのラジオ局に職を見つけ、やがて詩人のGと出会う。Gと一夜を共にした彼女は妊娠。Gにも知らせず男の子を出産する。ナチスのユダヤ人迫害でウィーンの家族全員をなくした彼女は、戦後息子とともに社会主義国となった東ドイツに移住、国家的文学者として名を成す。50代のある日、自宅の階段から落ちて死ぬ。息子は葬儀に訪ねてきたGと親子の対面を果たす。
だがもし、彼女が階段を下りるとき、考え事をしていなかったら? 5通り目の人生では、ベルリンの壁が崩れ、再統一されたドイツの高齢者施設で、彼女は90歳の誕生日の翌日に死ぬ。
ゲーテ全集第9巻、足載せ台、雪、人形の服といった様々な小道具が共通して登場し、意味あいを変えながらそれぞれの物語を結びつけている。ひとりの女性の人生の「そうであったかもしれない」いくつもの可能性を通して、同時に中東欧の過酷な激動の1世紀が生き生きと浮かび上がってくる。
著者の特徴だが、固有名詞の極端な少なさと繰り返しの多いリズミカルな文体が、全体におとぎ話風の幻想的雰囲気を与える。生と死を分けるほんのささいな偶然に支配された人間の人生そのものを、繊細な言語感覚で綴っている。本書は2012年のドイツ書籍賞にノミネートされるなど、高い評価を受けた。
著者ジェニー・エルペンベックは、1967年、旧東ドイツの首都ベルリンに生まれた。父は学者にして作家、母は翻訳家、祖父母も作家という著名な文学一家の娘だ。デビュー作『年老いた子どもの話』が邦訳されている。(2004年河出書房新社)
Aller Tage Abend Jenny Erpenbeck
すべての日々の黄昏 ジェニー・エルペンベック著
浅井晶子評
2013年5月1日水曜日
ドイツ語原書書評を担当してくださる浅井晶子さんは、これまで『太陽通り』(三修社)『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』(河出書房新社)、『アフリカで一番美しい船』(ランダムハウス講談社)ほか、数々の翻訳を手がけてきた、ベルリン在住の翻訳家です。
最新の訳書は『真昼の女』(河出書房新社)、『リスボンへの夜行列車』(早川書房)。