パプリカ商店 ブログ
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Eichborn出版 2012年 ケルン 400ページ
インパクトの強い表紙デザインにまず目を奪われる。ここからも想像がつくとおり、タイトルの「あいつ」とは、ヒトラーのこと。ドイツ史上最大の悪役アドルフ・ヒトラーが、2011年のベルリンにタイムスリップするという奇想天外な小説だ。
あるときふと目覚めると、「私(ヒトラー)」は空き地に倒れていた。すぐ側でサッカーをする少年たちは、ヒトラーユーゲントの隊員に違いないが、皆奇妙な恰好をしている。おまけに、誰も「私」を認識しない。さきほどまで敗色濃い戦争の真っ最中だったというのに、街や人のようすを見ると、いつの間にやらドイツは戦争に勝ったのか――
といった具合に、ヒトラーの一人称で物語が進むので、周りの反応と本人の勘違いのギャップが非常におかしい。ヒトラーはキオスクに置いてある新聞を手に取り、日付を見て驚愕する。1945年ではなく、2011年。気を失いかけたところをキオスクの主人に助けられる。ヒトラーを「ヒトラーの扮装をした売れない俳優」だと思った主人は、そのあまりの真に迫った「演技」に感動し、テレビ局にヒトラーを売り込む。こうしてヒトラーは、「ヒトラーの扮装をした芸人」として、お笑い番組に出演することに。だが本人は、テレビ局を足がかりに、いまださまざまな危機に直面しているドイツを救うべく、新たな組織作りを始めるつもりでいる。
お笑い番組で、ヒトラーは「ドイツ国民同胞」に向かって、さまざまな社会問題をテーマとして大真面目に演説する。当然のことながらそれは、ナチスの理念に沿ったものだ。ヒトラー本人は番組を、かつて党が行ったプロパガンダ政策と同じものと考えている。ところが、テレビ局側では笑いを取るつもりだった「ドイツ人たることに誇りを持て」というヒトラーの演説は、リベラルで民主的なはずの現代ドイツで意外にも爆発的な人気を呼び、熱心な信奉者も現れる。やがてヒトラー自身の番組が作られ、さまざまな政治家を呼んで、社会問題について議論しあうように。そして、ついには各政党から入党の誘いが……。
実在の人物や社会問題をたっぷり織り込み、大いに笑わせながら、ヒトラーが受け入れられていく過程を通して、現代社会が抱えるもろさ、闇の深さ、欺瞞や矛盾が次第に浮き彫りになっていく。ヒトラー礼賛はいまだに大きなタブーであるドイツで、ヒトラー自身を語り手として一人称で登場させることにより、彼の世界観をなんの制限もなく大胆に描き出すことに成功している。ポリティカル・コレクトネスからは程遠く、ユダヤ人問題へのヒトラーのコメントなど、ときに「ここまで書いていいのか」と読者であるこちらがひやりとすることも多い。
著者のフェルメスは、1967年、ハンガリー人の父とドイツ人の母のもと、ドイツのニュルンベルクで生まれた。大学卒業後、ジャーナリストとして働き、2007年よりゴーストライターとしてさまざまな本を他者の名前で書いてきたという異色の経歴の持ち主だ。本書はフェルメスの小説家としてのデビュー作。今年のフランクフルトのブックフェアでは、本のまわりに人だかりができるほどの人気だった。いま最も注目を集めている小説だ。
Er ist wieder da Timur Vermes
あいつが戻ってきた ティムール・フェルメス著
浅井晶子評
2013年1月6日日曜日
ドイツ語原書書評を担当してくださる浅井晶子さんは、これまで『太陽通り』(三修社)『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』(河出書房新社)、『アフリカで一番美しい船』(ランダムハウス講談社)ほか、数々の翻訳を手がけてきた、ベルリン在住の翻訳家です。
最新の訳書は『真昼の女』(河出書房新社)、『リスボンへの夜行列車』(早川書房)。